一般社団法人体力メンテナンス協会岐阜支部長の福田まいこです。
先日、協会のスキルアップ講座で同期の野上聖子先生が「自分の物語」を書くことを進めてくれました。
自分の過去を誰かに話したりするのは、下着を見られてるくらい恥ずかしくて避けて通ってきたのですが、
自分自身の整理と、もしも同じ境遇で悩んでいる人がいるなら
離れていても少しでもきっかけになるといいなと思い、書く決心をした次第です。
私がこの仕事をし始めたのは長男出産後。
その前は看護師をしていました。日本赤十字病院の集中治療室で若干ノイローゼになりながらも
ただただ必死に生きていました。
新人には荷が重かったことも、3年もすると「やりがい」に変わり、
医師と対等に治療を考えたり、
患者さんの全身管理をすることに楽しみすら感じていました。
ですが、同時に無力さも感じます。
生まれたての赤ちゃんの命を救えず、家族の悲しみの深さを目の当たりにしたり・・
まだ小さい子のいる家庭でお父さんが亡くなった時の光景・・
機械によって呼吸し、機械によって心臓の補助をしている人が徐々に力つきていく様子・・
そんな現場にいると、自分が健康で生きていることがあり得ない程の奇跡でなりたっているのだと思い知ります。
そして、私が将来産む赤ちゃんは五体満足で生まれてこないのではないか・・
独身で彼氏もいないくせに、そんなことすら感じていました。
そんなある日、病棟からICUに転棟してきた小学生の男の子がいました。
彼は白血病。
お母さんの骨髄を移植したのですが、不適合の為に拒絶反応が全身に起こっていました。
全身の肌がカサブタのようになり、呼吸器に繋がれ、下血(お尻の穴から内蔵の出血が出てくること)がありました。
幸いにも治療のかいあって少しずつ回復し、
呼吸器に繋がれながらもベッドで起きたり、テレビを観たり、あいうえお表を使って会話をしたりできるまでなりました。
言いたいこともなかなか伝わらず、ベッドに繋がれることを余儀なくされた男の子。
よくイライラしたり、だだこねたり、甘えたり・・そんな普通の男の子らしい姿は見ていてとても可愛かったです。
看護師や医師も四苦八苦しましたが、
夜になると、あいうえお表を使って『そ・ば・に・い・て』と伝えてくれるので、
一晩中手を握って一緒にいたこともありました。
そして何ヶ月か経ち、
そんな彼ともついにお別れのときがきました。
命いっぱい生き抜いた彼は、天国へと帰っていきました。
辛い治療からやっと解放してあげられるという気持ちと、
医療の無力さと、
残されたお母さんの途方もない悲しみと、、
胸が締め付けられる思いで、安らかな寝顔を拭いたのを覚えています。
その時に「今度は人が生まれてくるところを看たい!」と強く思ったのです。
そこから私の産科での勤務が始まります。
看護師という仕事は身も心もボロボロで鬱にもなりかけたし、新人の頃はアラーム音が寝てるときでも耳鳴りのように聞こえてきました。
先輩もめっちゃ怖かったし、できない自分が悔しくて、毎日同期で泣いてた。
泣いて赤い目を隠す為に、毎日マスクしてたなぁ。。
けれど人の人生のとても大きなターニングポイントに携わらせていただき、
患者さん一人一人のストーリーを目の当たりにする。
貴重な機会に立ち会うことでそこから教えられること、学ぶことがとても大きかったです。
当時私は、看護師を天職であり適職だと思っていました。
それは今でも思います。
そしてこの後、産科病棟に行き、ドラマコウノドリのような毎日の中で、プライベートも変化を迎えます。
「行きたい」と言って勤務病棟が都合良く変われるものではないですが、
私の暑苦しい思いに、優しい上司が掛け合ってくれました。
ありがたいことです。
そしてその点と点が線になる日が来て、今の私がいます。
長くなりましたので、今日はここまで。
読んでいただきありがとうございます。
次回は私がインストラクターになるキッカケをお話したいと思います。