『人は案外、自分の人生を生きていない』
以前何かの本でそう読んだことがあるが、
学生、看護職、講師となって、様々な人に出会い、
自分の人生をどうどうと生きている人は極少ないのだとわかった。
他人の言動やSNSの投稿、「いいね!」の数。フォロワー数。
今の仕事、肩書き、過去の栄光、小さい頃からの親の教え。
色んなものに捕われて、動けなくなる。
空気や流れに右往左往し、歩をとめたり、道を変えたりする。
しかし、今から百年たったら、周りの人も自分も、誰も生きていないのだ。
そんな限られた時間が人生。
だったら、自分が心の底からやりたいと思うことを精一杯やればいい。
自分の意に反して、誰かのために生きる必要はない。
宝泰寺住職、藤原東演氏は言う。
「自分なりに生き抜く。自分の人生を全うする。そのためにはどうしたらいいのか。
大切な事が二つある。
一つは、自分が今、預かっているこの命は限られていて永遠でなく、いつまで生きられ、いつ死ぬのか予測もできないという自覚が定まっていることだ。
もう一つは、他人の評価など気にせず、本当に自分が生きたい生き方をする覚悟と実行だと思うのである。」
私は看護師とインストラクター業を平行していた時期が数年ある。
どちらもやりがいがあり、どちらもものすごく好きだった。
30歳を過ぎ、ふと残りの人生を考えた時、
40代で人生の後輩達を導き、社会を引っ張っていける存在でいるためには
この人生で本気に打ち込むものを選択する必要があると感じた。
周りでは「看護師の方が安定して、収入もいいのに、なんで?」と言ってくれるお世話好きさんもいた。
そんな彼女たちも、今では私を応援してくれている。
そして、今の仕事への想いと同じくらい、
子ども達を育て上げたいと思った。
今年の4月。
長男が小学校へ入学した。
それなりに学校にも早く慣れ、毎朝1時間かかる登下校、毎日の宿題、今までやっていたプリントや家事、お稽古事もこなしている。
頑張り過ぎだ・・と母親ながら思ってしまう。が、そう言ってしまっては彼が考えて行動している芽をつんでしまうのではないかと、
未だ黙って見守っている。
けれど、時々、彼の心が元気でないときに気づく。
ご飯の量。肌のツヤ。声の覇気。表情・・
かもしだす空気が、ふと「あれ?」と思うときが。
そんなときは、両手を広げて「おいで!」というと、何していようが躊躇せず、両手を広げてすっ飛んでくる。
たぶん、私が仕事に必死になっていたら気づかなかったかもしれない、
とても繊細で、見失いやすいほどの空気。
今年1年は、この彼の空気を見過ごしたくないと思い、現場の仕事をセーブした。
今ある、ほんとに私を必要としてくれているところに、力を注ぐ。
セーブするのに、心が揺れなかったわけではないけれど、
それは私の人生を全うするときに、見ぬふりできないことだった。
要領の良い人なら、仕事ペースを変えずに、親として、妻として、全てをこなしていけるだろうけど、
残念ながら私にまだその力は備わっていない。
たぶん二人目ならまた違うだろう。それはまた二年後の自分と相談しようと思う。
そんな中でも、ありがたいことに外からのお仕事の話や取材のお話をいただく。
無理に動こうとしなくても、
必要なときに、必要なことはやってくるのだな。と感じている。
人はいつ死ぬのかわからない。
「時間ができたら好きな事をしよう」なんてのんきな事は言ってられない。
早くに命を落とした素晴らしき先人達が、毎回伝えてくれる。
「自分を大切に。今を精一杯生きて。。」
彼らが喉から手が出るほど生きたかった今日を、どれだけの人が一日一日覚悟して生きているだろう。
私もまだまだ。
だから、朝起きたときにお天道様に手を合わせ、
夜寝る前に子どもたちと感謝をして眠りにつくようにしている。
これは、子どもが産まれた7年前から1日も欠かさずに行っていること。
そうすることで、少しは今日生きている時間を当たり前でなく、精一杯生きられると思うから。
そしてその事を、子どもたちの細胞一つ一つに刻んでほしいから。